2016/06/13

ダンスのチカラ

しばらくブログ放ったらかしていました。
その間に桜も咲いて散り、梅雨入りして2016年も半分終わってしまいそうです。

4月には松本武士さんの作品「密」を。
去年の12月からコツコツと色々なものを試しながら積み上げた、濃密な作品でした。
真摯に行為を行うことの強さ、
それはいわゆるダンスとしての運動エネルギーの強さを超えて
「ダンス」になっていくんだなぁ、と「ダンス」の強さ、考え方を再認識、発見できました。
コチラの作品、7月にサラヴァ東京で再演させていただきます。
作品自体は若干のショートバージョンになりますが、お時間ありましたら是非。
渋谷でお酒を片手にお楽しみ頂けます。
詳細はコチラ


で、5月からリハーサルしていました、ここ3年ほど参加させていただいている
GRINDER-MANの二子玉川riseでのパフォーマンス、
今年はダンスと音楽をテーマにした「フォーエバーダンシング」。
昨日無事に終了しました。

普段は劇場のなかでダンスを作品化する、ということをしているわけですが
ダンスをそのままのカタチでお届けする、そのままのエネルギーをお届けすることが
できたのではないかな、と思っています。

それと同時に、劇場やとある空間に持ち込まれた瞬間に作品性や価値、
そういったものを問われるようになるのは不思議なものだし、面白いものだな、と。
それが劇場のもつチカラというか、役割というか…


価値のあるものを額縁に納めて眺める。
逆から言えば、額縁に収まっているものは価値のあるものだ。

劇場という空間で上演されるものは価値のある、
作品性のあるものではないといけない。
そのような考え方があるのかもしれないなー、と思ったり。
自分もそういった視点で劇場で作品を見ているような気もする。
そのような自尊心みたいなものが芸術を支えているというか、
さまざまな表現を芸術たらしめているような気さえしてきます。

不安定な自尊心の上に成り立つ芸術。
それがゆえに敬遠されているような気もするし、
敷居高く感じさせている部分もあるように思う。
かといって観客に迎合する、というのも違うような気もする。

なんとも難しいバランスの話なのかもしれない。
自分のやりたいことと、人に観せるために求められるモノ。
その微妙なバランスをとりながら、やっていくものですよね、やはり。


そういった小難しいことは結局考えるだけ無駄な部分もあって、
純粋に踊り続ける身体のエネルギーは美しいし、それはまた観る側にも伝播する。
今回「フォーエバーダンシング」に参加させていただいて改めて思います。

どこかで戦争をしている時に、どこかで誰かが踊っていることは「救い」であり
たとえ雨乞いの効果がなくても、そう信じさせるエネルギーがダンスにはある。

ダンスはそれでいい、ということなのだと思います。

それを作品とすることもできるし、日々の生活の潤いとすることもできる。
正解はひとつではなくて、無数。
好き嫌いはあったとしても、否定すること無くやっていけたら良いのではないかな、と。


もっとダンスと気軽に付き合いながら、深めていきたい。
表現としても生活としても。

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